「駄目だったのか?――」
窓の外から不意に萩原がそう呼びかけた。
「ああ、あいつも矢っ張り、お春を使っていたのだよ――」と珊作は答えた。
「フム、そうか。用心し給え。ことによると、あの豚め! 金の威光でお春さんを抱き込んでいるのかも知れないから――」
萩原は妙な笑いを浮べ乍ら、そう云い捨てて去った。
*
珊作の心の中に、この時からふと、得体の知れない怪しげな影が動きはじめた。
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その夜、深更。
寒い夜風があたりの立木をもみ鳴らしていた。坊城の邸の前の瓦斯灯がおぼつかなげに照っている甃石道に、洋服の上から黒い短いインヴァネスで身を包んだ珊作の姿が現れた。彼は注意深く周囲に気を配った後、ひらりと柵を乗り越えた。それから巧に窓をこじ明〔ママ〕けて、坊城の寝室に忍び入った。室内は殆ど真暗であった。僅に庭先の灯が窓を透して、坊城の寝姿を朧に露わしていた。が、珊作はその寝姿を見た瞬間、微にアッ――と叫んだ。彼は初めて自分が今まさに何を為そうとしていたか気が付いた。彼は自分の右手に握った大型のスペインナイフを見て竦然とした。彼はあわてふためいて踵を返した。その時突然、闇の中から、何者かが彼の肘をぎゅっとおさえた。
「ためらうべからず――」嗄れたような声が珊作の耳もとで
「おお!――」と珊作は夢中でその恐しい手を払いのけると一散に邸を逃れ出でた。
珊作の逃れ去ったあとに、同じ窓から姿を現わしたのは萩原であった。
「フ、フ、フ、フ、フ、奴め! 到頭坊城を殺す気になったな――」萩原はそう独語してにやりと笑った。
*
翌日、珊作の画室へ萩原が訪れて来た。
「どうした、憂い顔の友達! ――」萩原は陽気に呼びかけた。
「ふむ、僕は今、首を吊ろうとしていたところだ。」と珊作は蒼ざめた顔をあげて云った。
「莫迦な! ――実は一ついい思案を持って来たのだ。他でもない。君を救うために僕は小説を書いたのだがね。百円になるかならないか、読むからまあひとつ聞いてくれ給え。――題は――『影』