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 青木珊作は、ひと月の先に迫った国立美術館の展覧会へ出品するために、「情婦役コランバインの歎き」と命題した五十号の Nude を画いた。それはようよう完成しかけていた。もう一塗り最後の仕上げを待つばかりであった。

 だが、この時突然モデルの春子は解約を申し出た。珊作が十分に彼女の欲するだけの報酬を与え得なかったと云う理由を以て。春子は世にも美しい娘であった。

 この絵を完成し得ぬと云うことは、珊作にとって全く致命傷であった。この一枚の絵こそ自分の芸術的生涯の運命を決するものであると彼は思っていた。 (彼は未だ無名の画工であった。) 彼は魂の全部を賭けて画いた。その為に彼は極度の神経衰弱に襲われていた。


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 珊作には金の出来る当なぞさらになかった。彼はうつけたように、薄日の射した人通りの少いママ河沿いの裏町を当もなく歩いて行った。

「青木君、青木君――」背後からそう呼び止めたのは、つい先頃から識り合いになった萩原と云う末流小説家であった。萩原は珊作と同じように血色の悪い痩身長躯の男であった。何時も、古びた、併しよく身についた仏蘭西フランス風の身形をしていた。珊作は萩原をあまり好まなかった。彼はこれ迄短い間だが、あまりに屢々この小説家の卑劣な行為を見たり聞かされたりしていた。

「これは、これは――その悲しげなお顔はどうしたことじゃ!」と萩原は云った。

「悲しげな?――僕は、併し、ひどく頭が痛むのだて。」と珊作は云った。

「はてね? 僕はまた、恋わずらいかと邪推したのだが――」

「違いないよ! 萩原君、君は誰か、僕に百円貸して呉れそうな人を知らないか?――」

「知らないとは云わぬが、まあ理由を残らず語り給え。」

 珊作は仔細を打ち明けた。萩原はいたく同情を寄せたように云った。

「坊城のところへ行き給え! あの男にとっては百円位、一日の小遣いにもあたらない。」


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 坊城と云うのは有名な独身の貴族の画工であった。珊作は友の教えてくれたこの甚だ適当な思い付きに勇み立ち乍ら、直に坊城をその贅沢な画室に訪れた。だが、金を貸すことは酷くも拒絶された。それもその筈である。不仕合せなことにも、坊城が矢張り此度の展覧会へ出品すべく画いていた裸女像のモデルは同じ春子であった。春子はなまめかしく坊城に寄り添い乍ら、珊作のうち萎れて立ち去る様子を冷かママにながめた。


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 珊作の心は物狂おしく乱れた。今や彼は自分が春子に恋していたことを激しく意識した。彼は画室の中を檻の中の獣のように歩きまわった。