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方にも江戶にも、名高い學者が續々と現れました。

諸大名の中にも、學者を招き學校を興して、藩の敎育につとめるものが、年とともに多くなりました。わけても、親藩の水戶藩主、德川光圀は、皇室を尊び、神をうやまひ、日本のため、正しい學問をうち立てることにつとめました。光圀が生まれたのは、ちやうど濱田彌兵衞が、臺灣でオランダ人をこらしめたころのことであります。

光圀は、家康の孫に當ります。しかも、幕府がわがままであることを、いつも心配してゐました。每年元旦には、禮服に身を正して、はるかに皇居を伏し拜み、また、つねに家臣を戒めて、「われわれの主君は、天皇であらせられる。將軍は、德川の主であるに過ぎない。この點をまちがへてはならないぞ。」といひきかせました。それといふのも、幕府の威勢が强いので、武士たちの中には、ややもする