隱岐・吉野と、筆にもことばにもつくせない御苦難を、お重ねになりながら、まだ朝敵のはびこる世に、惜しくもおかくれになりました。おしのび申すことさへ、おそれ多いきはみであります。
義良親王が御位におつきになり、〈第九十七代〉後村上天皇と申しあげます。この時親房は、常陸の小田城にたてこもつて、敵と戰つてゐました。吉野のことも氣がかりですが、東國を離れるわけには行きません。攻め寄せる賊軍の鬨の聲を聞くにつけても、大義をわきまへないものの多いことが、なげかはしくなりました。親房は、戰のひまひまに、魂をこめて、國史の本を書き綴りました。これが名高い神皇正統記であります。やがて親房は、吉野へ歸つて、後村上天皇をおたすけ申しあげました。このころ正行は、父母の教へをよく守り、りつぱな武士になつてゐました。たびたび賊軍を破つて、官軍の勢をもりかへしました。攝津瓜生野の戰では、川におぼれる敵兵をいたはつてやるなど、正行の戰ひぶりは、實に堂々としてゐました。じりじりと敵を押し退けて、今にも京都へせまらうとする勢さへ示しました。惜しいことには、四條畷の合戰で、敵の大軍をけちらしながら、わづかなところで、賊將高師直を討ちもらし、身に數知れぬ深手を負ひ、弟正時と刺しちがへて、父そのままの最