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に、ほつとしました。あたりは水を打つたやうな靜けさです。清麻呂のこの奏上によつて、無道の道鏡は面目をうしなひ、尊いわが國體は光を放ちました。しかも、清麻呂のかげに、姉廣虫ひろむしのなさけのこもつた、はげましがあつたことも、忘れてはなりません。やがて〈第四十九代〉光仁くわうにん天皇の御代に、道鏡は下野しもつけの國へ流され、清麻呂は、朝廷に重く用ひられるやうになりました。

宇佐の神勅しんちよくを受けて國をまもつた清麻呂も、千萬ちよろづあたを筑紫の海にとりひしがうとする防人も、忠義の心は一つであります。清麻呂は、廣虫とともに、京都の護王ごわう神社にまつられ、その銅像は、宮城のお堀の水に、靜かに影をうつして、いつまでも皇國をまもつてゐるのであります。


第四 京都きやうと地方ちはう

一 平安京へいあんきやう

國内を治めるにも、外國とまじはりをするにも、青山にこもる奈良の都は、だんだん不便ふべんだと、思はれるやうになりました。そこで〈第五十代〉桓武くわんむ天皇は清麻呂きよまろの意見をもおくみになつて、今の京都の地に、都をおうつしになりました。紀元一千四百五十四年、延曆えんりやく十三年のことであります。

この地は、三方に美しい山をひかへ、しかも東西のしよ地方との往來も便利べんりである上に、淀川よどがは琵琶湖びはこによつて、大阪や敦賀つるがの港に出や