も筑紫の海を見つめて、少しのゆだんもみせなかつたのでした。
奈良の御代御代は、かうして、平和のうちに過ぎて行きましたが、ここに思ひがけないことが、國の中に起りました。それは、道鏡といふ惡僧の無道なふるまひです。道鏡は、〈第四十八代〉稱德天皇の御代に、朝廷に仕へて政治にあづかつてゐましたが、位が高くなるにつれて、しだいにわがままになり、つひに、國民としてあるまじき望みをいだくやうになりました。すると、これもある不心得者が、宇佐八幡のおつげと稱して「道鏡に御位をおゆづりになれば、わが國はいつそうよく治るでございませう。」と奏上しました。いふまでもなく、道鏡に對するへつらひの心からいひ出した、にくむべきいつはりごとでありますが、天皇は、わざわざ和氣清麻呂を宇佐へおつかはしになつて、神のおつげをたしかにお聞かせになりました。
宇佐から歸つた清麻呂は、天皇の御前に進んで、道鏡にはばかるところなく、きつぱりと、かう申しあげました。
「わが國は、神代の昔から、君臣の分が明らかに定まつてをります。それをわきまへないやうな無道の者は、すぐにもお除きになりますやうに。これが宇佐の神のおつげでございます。」
なみゐる朝臣は、すくはれたやう