た皇室の御惠みによつて、奈良の都は、東大寺を始め多くの大寺をちりばめ、今を盛りと咲きほこる八重櫻のやうに、美しく榮えました。藤原氏や大伴氏など、朝廷に仕へる人々が、それぞれの役目にはげみ、民草は、天地とともに榮える大御代をことほぎました。國中に元氣が滿ち、力があふれました。このころできた萬葉集といふ和歌の本には、若鮎のやうにぴちぴちとした歌が、たくさん集つてゐます。
また地方の國分寺も、國府と結び、その役人と助け合つて、よく人人をなつけました。その遺物・遺蹟や「國分寺」といふ里の名が、今なほ多く殘つてゐるのは、國分寺が國のしづめとして、よくその役目をはたした證據です。道を造り、橋をかけ、港を開くなど、地方のためにつくした僧も、行基を始め少くありません。
佛教が盛んになるにつれて、美術・工藝も、目だつて進みました。寺々に傳はつてゐる數々の佛像や、東大寺境内の正倉院や、その中にをさめられてゐる聖武天皇の御物などは、すべてりつぱなものばかりです。それが、千二百年後の今日まで、そのまま保存されてゐるのは、わが國だけに見られることで、そこにも、わが國からの尊さがしみじみと思ひ合はされるのであります。