ますが、奈良の都は、御七代・七十餘年の間、咲く花のにほふやうに榮えました。北の正面には、大内裏があり、南へ走る朱雀大路は、都を左右に分けて、そのはてに、羅城門を開いてゐます。東西九條・南北八坊の都大路は、ちやうど碁盤の目のやうに、きちんと町をくぎり、宮殿や寺々の青い瓦、白い壁、赤い柱が、日の光、山のみどりに照りはえて、まるで繪のやうな美しさです。かうした都大路を、銀をちりばめた太刀をさげて、ねりあるく若者もあれば、梅の小枝をかざして行く大宮人も見受けられます。この美しい都をしたつて、人々は四方から集り、いつも市が立つ有樣でした。
奈良の都が榮えたのは、國に力が滿ち滿ちたしるしであり、國民は、喜びの中に、國がらの尊さをしみじみと感じました。さうして、元明天皇・〈第四十四代〉元正天皇御二代の間には、太安萬侶らの苦心によつて、いよいよ古事記・日本書紀といふ國史の本が、りつぱにできあがりました。また、元明天皇の勅によつて、國々からは、それぞれ地方の地理をしるした風土記といふ書をたてまつりました。
奈良の都が最も榮えたのは、〈第四十五代〉聖武天皇の御代であります。奈良といへば、まづ思ひ出される東大寺の大佛も、天皇のお造らせになつたものであります。佛教を國のすみずみまでひろめて、國