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にして、太子の遺業を物語ものかたるかのやうに立つてゐます。力のこもつた中門ちゆうもんの丸柱、どつしりとかまへた金堂こんだう、大空にそびえる五重塔ごぢゆうのたふ、それらが、まことに變化へんくわに富むとともに、調和の美しさを示してゐます。さらに、道を東へとつて夢殿ゆめどのの前に立つと、繪にもかきたい八角の堂の中に、今でも太子が、しづかに工夫くふうをこらしてゐられるやうな氣がします。

法隆寺の堂塔は、木造の建物として世界で最も古く、最も美しいものの一つです。これを今に傳へてゐることには、世界の國々もおどろいてゐます。まことに、法隆寺は日本のほこりであります。

三 大化たいくわのまつりごと

聖德太子がおなくなりになると、人々の氣持がまたゆるみ、一度よくなつた政治も、あともどりをすることになりました。それは、蘇我氏が、前にも增して、わがままをふるまつたからです。その上、大陸では、隋がほろびてたうが興り、その勢は隋よりさかんで、わが國は少しのゆだんもできません。ながらく支那に行つてゐた高向玄理たかむこのくろまろ南淵請安みなぶちのじやうあんなどが、〈第三十四代〉舒明じよめい天皇の御代に歸つて來たので、向かふのやうすが、手に取るやうにわかるのです。それなのに、蘇我氏は、蝦夷えみし入鹿いるかと代を重ね、〈第三十五代〉皇極くわうぎよく天皇の御代になつて、そのわがままは、つのる一方です。蝦夷は、生前に自分たち親子のはかを作つて、これをみささぎと呼び、入鹿は、そのやしきみやといひ、子たちを王子みこしやうしました。聖德太子のせつかくの御苦心ごくしんも、これでは、水のあわとなつてしまふのではないかとさへ思はれました。