固くなつて行きました。
今、畝傍山の陵を拜し、橿原神宮にお參りして、天皇の大御業をはるかにおしのび申しますと、松風の音さへ、二千六百年の昔を物語るやうで、日本に生まれたよろこびを、ひしひしと感じるのであります。
三 五十鈴川
その後も、御代御代の天皇は、民草を子のやうにおいつくしみになりました。國民もまた、親のやうにおしたひ申しました。かうした、なごやかさが續いてゐる間に、日本の力は、若竹のやうにずんずんのび、御稜威は、やがて海の外まで及ぶやうになりました。
神々のお生みになつた大八洲、海原をめぐらす敷島の國のこととて、海・山の眺めはひときは美しく、山の幸、海の幸がゆたかで、野には、大神のたまものである稻の穗がそよいでゐます。かうした浦安の國に、國民は多くの氏に分れ、それぞれ一族のかしらにひきゐられて、皇室に仕へてゐたのであります。それぞれ、氏の先祖の神をまつり、先祖から傳はる仕事にはげんでゐました。皇室のおまつりをつかさどり、宮居をおまもりして武をみがき、田畠をたがやして穀物を作ることなどが、いちばん大切な仕事でありました。
かうして、五百年ばかりの年月がたつて、〈第十代〉崇神天皇が御位に