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れは、教室の右の隅の方の、沼倉の机の近所から聞えて来るらしく、しやべつて居る者はたしかに沼倉に違ひないと推量されて来た。若しも其の者が沼倉以外の生徒であつたならば、殊にいたづら者の西村なぞであつたらば、貝島は直ぐにも向き直つて叱りつける所だけれど、なぜか彼には沼倉と云ふ子供が叱りにくいやうな気がした。何だか斯う、子供で居て子供でないやうな、煙つたい人間のやうに感ぜられて、叱るのが気の毒でもあれば不躾でもあるかの如く思はれたのであつた。一つにはまだ馴染みの薄い為めでもあるが、彼は今日まで沼倉に対して、教室での質問以外に、親しみ深い言葉を交へた事は一度もなかつた。で、成るべくならば叱らずに済ませよう、そのうちには黙るだらう、と、出来るだけ貝島は知らない風を装つて居ると、反対に話声はだん無遠慮に高まつて来て、遂には沼倉の口を動かす様子までが、彼の眼に付くやうになつた。

「誰ださつきからべちやとしやべつて居るのは? 誰だ?」

と、とう彼は我慢がし切れなくなつて、かう云ひながら籐の鞭でびしツと机の板を叩いた。

「沼倉! お前だらうさつきからしやべつて居たのは? え? お前だらう?」

「いゝえ、僕ではありません。………」

沼倉は臆する色もなく立ち上つて、かう答へながらずつと自分の周囲を見廻した後、

「先から話をして居たのは此の人です」

と、いきなり自分の左隣に腰かけて居る野田と云ふ少年を指さした。

「いゝや、先生はお前のしやべつて居る所をちやんと見て居たのです。お前は野田と話をして居たのではない。お前の右に居る鶴崎と二人でしやべつて居たのだ。なぜさう云ふ譃をつくのですか」

貝島はいつになくムカムカと腹を立てゝ顔色を変へた。なぜかと云ふのに、沼倉が自分の罪をなすりつけようとした野田と云ふ少年は、平生から温厚な品行の正しい生徒なのである。野田は沼倉に指さゝれた瞬間、はつと驚いたやうな眼瞬まばたきをして、憐れみを乞ふが如くに相手の眼の色を恐る窺つて居たが、やがて何事をか決心したやうに、真青な顔をして立ち上ると、

「先生沼倉さんではありません。僕が話をして居たのです」

と、声をふるはせて云つた。多勢の生徒は嘲けるやうな眼つきをして一度に野田の方を振り返つた。

それが貝島にはいよ腹立たしかつた。野田はめつたに教場の中で無駄口をきくやうな子供ではない。彼は大方、此の頃級中の餓鬼大将として威張つて居る沼倉から、不意に無実の罪を着せられて、拠ん所なく身代りに立つたのだらう。若しも罪を背負はなかつたら、後で必ず沼倉にいぢめられるのだらう。さうだとすれば沼倉は尚更憎むべき少年である。十分に彼を詰問して、懲らしめた上でなければ、此のまゝ赦す訳には行かない。

「先生は今、沼倉に尋ねて居るのです。外の者はみんな黙つておいでなさい」

貝島はもう一遍びしりツと鞭をはたいた。

「沼倉、お前はなぜさう云ふ譃をつくのです。先生はたしかにお前のしやべつて居る所を見たから云ふのです。自分が悪いと思つたら、正直に白状して、自分の罪をあやまりさへすれば、先生は決して深く叱言を云ふのではありません。それだのにお前は、譃をつくばかりか、却つて自分の罪を他人になすり付けようとする。さう云ふ行ひは何よりも一番悪い。さう云ふ性質を改めないと、お前は大きくなつてからロクな人間にはならないぞ」

さう云はれても、沼倉はビクともせずに、例の沈鬱な瞳を据ゑて、上眼づかひに貝島の顔をじろと睨み返して居る。その表情には、多くの不良少年に見るやうな、意地の悪い、胆の太い、獰猛な相が浮かん