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称呼を附けさせて、功労のある部下に与へた。勲章係りと云ふ役が又一つ殖えた。すると或る日、副統領の西村が、誰かを大蔵大臣にさせて、お札を発行しようぢやないかと云ふ建議を出した。此の発案は、一も二もなく大統領の嘉納する所となつたのである。

洋酒屋の息子の内藤と云ふ少年が、早速大蔵大臣に任ぜられた。当分の間の彼の任務は、学校が引けると自分の家の二階に閉ぢ籠つて、二人の秘書官と一緒に、五十円以上十万円までの紙幣を印刷する事であつた。出来上つた紙幣は大統領の手許に送られて、「沼倉」の判を捺されてから、始めて効力を生ずるのである。総べての生徒は、役の高下に準じて大統領から俸給の配布を受けた。沼倉の月俸が五百万円、副統領が二百万円、大臣が百万円、―――従卒が一万円であつた。

かうしてめいに財産が出来ると、生徒たちは盛んに其の札を使用して、各自の所有品を売り買ひし始めた。沼倉の如きは財産の富有なのに任せて、自分の欲しいと思ふ物を、遠慮なく部下から買ひ取つた。そのうちでもいろと贅沢な玩具を持つて居る子供たちは、度々大統領の徴発に会つて、いやながら其れを手放さなければならなかつた。S水力電気会社の社長の息子の中村は、大正琴を二十万円で沼倉に売つた。有田のお坊ちやんは、此の間東京へ行つた時に父親から買つて貰つた空気銃を、五十万円で売れと云はれて、拠ん所なく譲つてしまつた。最初は其れが学校の運動場などでポツリポツリとはやつて居たのだが、果ては大袈裟になつて来て、毎日授業が済むと、公園の原つぱの上や、郊外の叢の中や、T町の有田の家などへ、多勢寄り集つて市を開くやうになつた。やがて沼倉は一つの法律を設けて、両親から小遣ひ銭を貰つた者は、総べて其の金を物品に換へて市場へ運ばなければいけないと云ふ命令を発した。さうして已むを得ない日用品を買ふ外には、大統領の発行にかゝる紙幣以外の金銭を、絶対に使用させない事に極めた。かうなると自然、家庭の豊かな子供たちはいつも売り方に廻つたが、買ひ取つた者は再びその物品を転売するので、次第に沼倉共和国の人民の富は、平均されて行つた。貧乏な家の子供でも、沼倉共和国の紙幣さへ持つて居れば、小遣ひには不自由しなかつた。始めは面白半分にやり出したやうなものゝ、さう云ふ結果になつて来たので、今ではみんなが大統領の善政(?)を謳歌して居る。

貝島が啓太郎から聞き取つた処を綜合すると、大略以上のやうな事柄が推量された。それで、子供たちが彼等の市場で売捌いて居る物品は非常に広い範囲に亙つて居るらしく、その晩啓太郎が列挙したゞけでも二十幾種に及んで居た。即ち左記の通りである。―――

西洋紙、雑記帳、アルバム、絵ハガキ、フイルム、駄菓子、焼芋、西洋菓子、牛乳、ラムネ、果物一切、少年雑誌、お伽噺、絵の具、色鉛筆、玩具類、草履、下駄、扇子、メタル、蝦蟇口、ナイフ、万年筆、

此のやうに多種類の物品が網羅されて居て、彼等の欲しいと思ふものは、市場へ行けば殆ど用が足りるのであつた。

啓太郎は先生の息子だからと云ふので、沼倉から特別の庇護を受けて居る為めに、お札には常に不自由しなかつた。―――多分沼倉は、貝島の家庭の様子を知つて居て、啓太郎の窮乏を救つてやらうと云ふ義俠心もあつたらしい。―――彼はいつでも懐に百万円くらゐ、大臣と同じ程度の資産を有して居た。祖母に見咎められた色鉛筆だの餅菓子だの扇子だのゝ外にも、此れ迄にさまな物品を買ひ求めて居ると云ふ、しかし沼倉は、外の命令は兎に角として此の貨幣制度だけは、先生に見付かると叱られはせぬかと云ふ心配があつた。で、決して此のお札を先生の前で出してはならない、先生に知れないやうにお互に注意しようぢやないかと云ふ約束になつて居た。若しも云付いつける者があつたら厳罰に処する旨の規定さへ出来て居た。啓太郎は一番嫌疑を蒙り易い地位に居るので、不断から気を揉んで居たのだが、今夜図らずも盗賊の汚名を着せられた口惜しさに、とう白状してしまつたのである。彼が散々強情を張つたり、声を挙げ