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と、少年は懐から皺くちやになつた一枚の贋札を出して、それを翳しつゝ手の甲で頰つぺたの涙を擦つて居た。

父親は札を受け取つて膝の上にひろげて見た。其れは西洋紙の小さな切れへ、「百円」と云ふ四号活字を印刷した、子供欺しのおもちやに過ぎないもので、啓太郎の懐にはまだ四五枚も隠されて居る事が明かになつた。五十円だの、壱千円だの、中には壱万円だのと云ふのもあつて、金額が殖えるほど活字の型や紙幣の版が大きく出来て居る。さうして、紙幣の裏の角のところには、孰れも「沼倉」と云ふ認印が捺してあつた。

「此処に沼倉と云ふ判が捺してあるぢやないか。此のお札は沼倉が拵へて居るのかい?」

貝島は大凡そ事件の性質を推察して、ほつと胸を撫でおろしたものゝ、それでも未だに不審が晴れなかつた。

「うん、うん」

と、啓太郎は頤で頷いてます激しく泣き続けて居た。

とう其の晩、一と晩中かゝつて、啓太郎を宥めすかして吟味した末に、貝島は其の札の由来を委しく調べ上げる事が出来た。其処には彼が予測した通りの、沼倉と云ふ少年の勢力発展の結果が、驚くべき事件となつて伏在して居たのであつた。―――

啓太郎の談話から想像すると、貝島が我ながら老練な処置だと思つて己惚れて居た餓鬼大将操縦策は、半ば成功したにも拘らず、いつの間にか其の弊害も多くなつて居るらしかつた。一度ひとたび教師から案外な賞讃と激励の辞を聞かされた沼倉は、大いに感奮すると同時に一層図に乗つて活躍し出した。彼は第一に、同級生の人名簿を作つて、毎日生徒たちの言動を観察しては、彼独特の標準の下に一々厳重な操行点を附けて行つた。出席、欠席、遅刻、早帰り、―――さう云ふ事柄をも、先生が行ふのと同じやうな権威を以て、一々帳面へ書き留めた事は云ふ迄もない。のみならず、欠席者には欠席の理由を届けさせた上、別に秘密探偵を放つて、果して其の理由が真実かどうかを調べさせた。道草を喰つて授業に遅れたり、びようを使つて休んだりする者は直きに探偵の為めに證拠を摑まれるから、好い加減な譃をつく訳には行かなかつた。―――さう云はれゝば貝島は思ひあたる節があつた。此の頃はさつぱり欠席や遅刻をする生徒がない。C町の荒物屋の忰の、橋本と云ふ病身な子供までが、真青な、元気のない顔をしながら、感心に毎日学校へ通つて居る。何にしても皆が非常に勉強家になつたらしい。結構な事だと喜んで居たのであつた。―――探偵には七八人の子供が任命されて居た。彼等は常に級中の怠け者の家の周囲を徘徊したり、密かに跡をつけたりして、油断なく取り締まつて居る。勿論一方にはきびしい罰則が設けられて、命令を背いた場合には、たとひ其れが級長であつても、或は、沼倉自身であつても、甘んじて制裁を受けなければならなかつた。

罰則の種類がだん殖えて来るに従つて、制裁の方法も複雑になり、探偵の人数も増すやうになつた。しまひには探偵以外に、いろの役人が任命された。先生から指名された級長は其方そつちけにされて、代りに腕力のあるいたづら者が、監督官に任ぜられる。出席簿係り、運動場係り、遊戯係り、と云ふやうな役も出来る。大統領の沼倉を補佐する役が出来る。裁判官が出来る、その副官が出来る、高官の用を足す従卒が出来る。役人のうちでも一番位の高いのは、副統領の西村であつて、此れは二人の従卒を使つて居た。優等生の中村と鈴木とは、始めのうちは性質が惰弱な為めに軽蔑されて居たけれど、次第に沼倉から尊敬されて、後には大統領の顧問官になつた。

それから沼倉は勲章を制定した。玩具屋から買つて来た鉛の勲章へ、顧問官に命じてそれ尤もらしい