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で居た。

「なぜお前は黙つて居るのか。先生の今云つたことが分らないのか」

貝島は、机の上に開いて置いた修身の読本を伏せて、つかと沼倉の机の前にやつて来た。さうして、飽く迄も彼を糺明するらしい気勢を示しながら、場合に依つては体罰をも加へかねないかのやうに、両手で籐の鞭をグツとしなはせて見せた。生徒一同は俄かに固唾を呑んで手に汗を握つた。何事か大事件の突発する前のやうな、先とは意味の違つた静かさが、急に室内へしーんと行き亙つた。

「どうしたのだ沼倉、なぜ黙つて居る? 先生が此れほど云ふのに、なぜ強情を張つて居る?」

貝島の手に満を引いて居る鞭が、あはや沼倉の頰ツぺたへ飛ばうとする途端に、

「僕は強情を張るのではありません」

と、彼は濃い眉毛を一層曇らせて、低くかすれた、同時にいかにも度胸の据わつたしぶとい声で云つた。

「話をしたのはほんたうに野田さんなのです。僕は譃を云ふのではありません」

「よし! 此方へ来い!」

貝島は彼の肩先をムヅと鷲摑みにして荒々しく引き立てながら、容易ならぬ気色で云つた。

「此方へ来て、先生がいゝと云ふまで其の教壇の下で立つて居なさい。お前が自分の罪を後悔しさへすれば、先生はいつでも赦して上げる。しかし強情を張つて居れば日が暮れても赦しはしないぞ」

「先生、………」

と、その時野田が又立ち上つて云つた。沼倉は横目を使つて、素早く野田に一瞥をくれたやうであつた。

「ほんたうに沼倉さんではありません。沼倉さんの代りに僕を立たせて下さい」

「いや、お前を立たせる必要はない。お前には後でゆつくり云つて聞かせます」

かう云つて貝島は、遮二無二沼倉を引立てようとすると、今度はまた別の生徒が、

「先生」

と云つて立ち上つた。見るといたづら小僧の西村であつた。その少年の顔には、平生の腕白らしい、鼻つたらしのやんちやんらしい表情が跡かたもなく消えて、十一二の子供とは思はれないほど真面目くさつた、主君の為めに身命を投げ出した家来のやうな、犯し難い勇気と覚悟とが閃めいて居るのであつた。

「いや、先生は罪のない者を罰する訳には行きません。沼倉が悪いから沼倉を罰するのです。叱られもしない者が余計なことを云はぬがいゝ!」

貝島はかあツとなつた。どうして皆が沼倉の罪を庇ふのだか分らなかつた。それほど沼倉は、常に彼等を迫害したり威嚇したりして居るのだとすれば、ます以て怪しからん事だと思つた。

「さあ! 早く立たんか早く! 此方へ来いと云ふのになぜ貴様は動かんのだ!」

「先生」

と、又一人立ち上つたものがあつた。

「先生、沼倉さんを立たせるなら僕も一緒に立たして下さい」

かう云つたのは、驚いた事には級長を勤めて居る秀才の中村であつた。

「何ですと?」

貝島は覚えず呆然として、摑んで居る沼倉の肩を放した。

「先生、僕も一緒に立たせて下さい」

つゞいて五六人の生徒がどやと席を離れた。その尾について、次から次へと殆ど全級残らずの生徒が、異口同音に「僕も」と云ひながら貝島の左右へ集つて来た。彼等の態度には、少しも教師を困らせよ