Page:TōjōKōichi-Flowers of Frost-2002-Kōsei-sha.djvu/4

このページは検証済みです

 その後、候補生殿は二度と私に物を云わなかった。

 その年の冬。ある寒気の厳しい真夜に、彼は特別室の畳に腹匍ったまま眠った様に死んでいた。彼の只一つの荷物、色褪せた信玄袋には汚れた繃帯が半ば腐りかけてぎっしり詰っていた。そして、それらの中にくるまって、彼の唯一の身許証明書、軍隊手帖がでてきた。それには「軍法第二十六條ニ依リ兵役免除云々」の文字があり、明らかに陸軍歩兵士官候補生と記されてあった。

 因みに彼が特別室に入っていたのは、本人の意志に依るものであった。彼くらいの病状では、当病棟は普通静養室を用いている。


真理屋さん


 真理屋さんはあるくれがた多勢の舎の者に送られて賑やかな精神病棟入りをした。私が彼を受持つことになっていたので、取敢えず玄関まで迎えに出た。そして、成程、これは真埋屋に違いないと思わず微苦笑させられた。布団や荷物を抱えた舎の者の背後に、院支給の棒縞の単衣を着た背のひょろ長い男が、どす黒い手足を振りまわしてからから笑っている。しかも、その顔には、半紙大の厚紙一ぱいに墨痕も鮮やか「真理」と書きなぐった四角な面を附けているのだ。それには普通のお面のように目、鼻、口などがちゃんとくりぬいてある。御当人はその真理の面を越後獅子かなんぞのように面白お可笑く振っているのだ。彼は寝る間もそれを附けて離さないのだという。

「私の別荘はどちらですかねえ……」と彼はひどく間のびた調子で云いながら、長い廊下をひょこと私の背ろに従いて来る。

「君の別荘はそら此処だよ。」

 と私がろ号特別室の扉を開いて招じ入れると、彼は如何にも嬉しそうにぴょこんと一つ私に頭を下げてから室内に飛込み、そうしてきょろきょろと四辺を眺めまわしている。

「いやあ、これはいい別荘だ。豊臣秀吉だってこんないい別荘には住んでいなかった。いやあ、これは素晴しい。附添さん、どうも有難うございます。有難うございます。」

 さも嬉しそうに小躍りして手を打ち叩き、けらけらと笑いやまない。「真理」の面を附けているので、彼がどんな容貌の男なのか判らない。

 同室者の話では、発狂前は非常におとなしい内気な男で、作業は構内清掃に従事していた。体も小まめによく動き、部屋の雑事、拭き掃除から食器磨きに至るまで殆ど一人で担当していた。それに親切で病人の面倒もよかったので、舎中の者から尊敬されていたという。読書が好きで、仕事の傍ら寸暇も惜しむようにして勉強していた。殊に哲学書を耽読し、発狂前の二三ヶ月は文字通り寝食を忘れて勉学瞑想した。ために一時は健康を害ねたほどであった。同室者達が見かねて、そんなに夢中になって勉強しては体に障るからと注意したが、癩者の生命は短かママい。その短かい間に永遠の真理を発見せねばならんので、私はとても無理せずにはいられない、と答えて相変らず哲学書に耽溺していた。すると、ある夜のこと、ああ真理は去った……といとも悲しげに呟きながら、ふらふらと戸外へ出て行くので、何か間違いがあってはと部屋のものが案じてそっと後を尾けて行った。彼は沈思黙考、躁踉として林の中を逍遙していたが、やがて帯を解いて首をくくろうとした。尾けて来た男は喫驚して押し留め、無理矢理彼を連れ帰ったので幸いその場は事無きを得た。しかし、それ以来彼の頭脳は変調を来し、真理真理と大声に喚き叫びながらけらけらと笑いこける。今まで戯談一つ云えなかったものが、油紙に火の付いたようべらべらと喋り立てる。飯を喰うにも真理と云い、虫一匹見ても真理だと叫んで喜ぶ。果ては厠の壁といわず、室の戸障子、または自分の持物から同室の者の衣