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といふあり、惣門に漸入境塔(佳境ィ)と云四字を題す、是より認入ハ、岩のめくりたるかけに佛殿方丈あり、さはかりの跡なり、爰をも出て又むかふ谷に入ぬ、左に深き谷あり、覺園寺といふ律家あり、實に古跡也、尊氏將軍の再興し給ふより此かたの寺也、むねの札にたしかに見えたり、今の世の工の造りたるに違ひ見所多し、長老坊の造りなと、外にハいまた見ぬさま也、月中行事の順簿有、叮嚀なり、むかしさて、今ハ定めて十か二三も勤ハあらしとおもふ、八十の老僧一兩人、うち眠て壁に寄りかゝりたる有さま、いつくにたとへんサヒシさとも覺えす、いさゝかも世中をハしらぬかほ也、心にまかせなハ、爰に留て生を送らまほしくそ思ふ、捨ぬる身さへ心の儘にならぬ事也、人のおもふに違はぬ、此寺庄園も少しハ殘り、山林もあれとも、人をかくより、境日々におとろへぬと見えたり、甲斐力の人有ハ、今少しハ軒をもかゝけ、庭の木のはをもはらひつへうそ覺えたる、いつくにも任(住ィ)にあたる人まれ也、境ハ人に依てあらはるゝといふ事實なり、五山なとの加樣まて淺ましく成ぬる事ハ、いつの時よりかと問へハ、伊豆の早雲關八州を領せられけれ共、そこの國郡をしる人達、みな北條に隨ふといふちきり計にて、國郡ハむかしのことく預り居るなれハ、八州の司(主計ィ)といふはかりにて、しる所やせはかりけん、事たらされば、力もいらすして、落しやすき寺社の領地を皆おとして、我ウテナをにきほされてより、かくのことく成ぬとなり、五山なといふ地をけつりて、わたすへきもいかゝとて、僧一二人朝け夕けをさゝけよとて、十貫つゝ殘し置て皆おとされ、建長圓覺ハ所ひろきとて、百貫殘されし、今もせめてむかしの地ならハ、物の數にも事たる