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はなさく松

謹て南朝の時曆を考るに延元元年後醍醐帝吉野に潛幸ましてより元中九年〈北の明德三〉後龜山帝後小松院を御猶子の儀にて三種の神寳わたし奉らるゝまておよそ三代すへて五十七年なりしかるを後村上帝の次に長慶院をたてゝ四代とするものハ非ならん新葉集序に云かみ元弘の初よりして弘和の今に至るまて世ハみつきとしハいそとせと云々みつきとは後醍醐後村上當帝〈後龜山院〉是也もし後醍醐帝をのそき奉りて後村上長慶院後龜山の三帝といはんにハかみ元弘のはしめよりと書せ給ふへからす又天授〈後龜山帝〉元年五百番歌合に前大納言光有

おもひきや三代につかへてよしの山雲井のはなになをなれんとハ

關白

よし野山名もかひありて三代まてのみゆきかさなる花のしら雲

此外にも三代とよめる歌あり〈「天授元年ハ後龜山帝即位八年なり」イ无或人曰後村上帝正平廿三年三月崩御ならせ給しかハ第一の皇子寬成〈長慶天皇〉位につかせ給則御弟凞成〈後龜山帝〉をたてゝ皇太弟とし給ひ文中二年八月二日讓位有しよし花營三代記にみえたり然るに今長慶帝を除き奉りて三代といへるハ非ならん答曰寬成凞成ともに福恩寺殿下の御女嘉喜門院の腹なるへししかれとも寬成を以て第一とし凞成を以て次とするものハ非ならむ新葉集春上云今上いまたみこにおましけるとき家に侍りける梅の花をおりて奉るとて福恩寺前關白內大臣

いとはやも分てたをらハはるの宮に木たかくにほへ宿の梅が枝