衛門㆒、賜㆓宅一區於此橋之側㆒、因得㆑名、寶曆中、民有講而更㆓造之㆒者既成、輙壊遂廢、而不㆓復作㆒者數年矣、乃復請而重㆓建之㆒、一如㆓舊制㆒、是時安永五年也、鄉人欲㆑書㆓其事于石㆒、因以㆓故郷先生惟宗政公所㆑著孝行正右衛門小傳一篇㆒來謁於㆓於余㆒、按孝行正右衛門、姓池田氏、幼失㆑估獨與㆑母居、温清定省、禮無㆓違者㆒、下㆑氣怡㆑聲以承㆓順之㆒、爲㆑人和平、與㆑之遊者亦未㆔嘗見㆓其忿懥之色㆒、家至貧、乃業㆓流剃㆒以爲㆓奉養㆒、朝饗夕飧、必供㆓甘旨㆓、有贈㆓之衣服若貨財㆒者㆖、則受而獻㆓諸母㆒、有㆘勸㆓之娶㆒者㆖則辭焉、日我養㆓吾親㆒、弗㆑給是懼、其敢畜㆓吾妻㆒乎、竟不㆑娶、母既老毟、又得㆓未疾㆒、欲㆑食云則哺㆑之、欲㆑行云則負㆑之、扶持調護、如㆑保㆓嬰兒㆒、母死、畫夜號泣、殆不㆑勝㆑喪、既葬日詣㆓墓所㆒歔欷鳴咽、噡望低回、移㆑時而不㆑能㆑去、如㆑是者數年、蓋其行之可㆓槩見㆒者如㆑此、其可㆑謂㆑孝也巳、乃摭㆓其事㆒、以爲㆓橋記㆒、蓋其所㆑宜㆑書者在㆓乎其人㆒云爾、則其重建之由、與㆓夫功程費用之詳㆒、不㆓必書㆒也、是年歳次丙申
秋九月朔旦記、
孝義録曰、薩摩國池田正右衛門は、鹿兒島の城下恵比須町の人なり、父うせにし後、家貧くなりゆきしかば、作毛又は髪ゆふ業をなして母をやしなへり、母中風を病て、手足も心にまかせねば、常には抱きかかへて起居をたすけ、朝夕の食も箸とりてくはせ好める物あれは、則ち求め進めけり、夜々に母の側にさま〳〵の物語して、其ねむりを待、我身は全く衣なしといへども、寒き夜は母のふしどに薄團衾の類を重ね、其身をもて母の肌を暖め、夏の夜はあふぎ涼しからしむ、かかる貧しき中にて、孝養をつくしけるに、人も感じあひて、母一人をだに養ふことの心にまかせぬに、何とて妻持べきとて諾なはず、其後母身まかりぬ、寶永余年、十一月に、領主に聞へて、恵比須町にて、町屋敷一所と、鳥目若干を與へて賞せり、すべて鹿兒島の城下にて、皆孝行正右衛門と稱じ、其屋敷のかたはらの橋を名付て、孝行橋といへり、正右衛門享保九年四月失にし後、何者かしたりけん、孝行橋の橋柱に、一首の歌を書付たる、幾世にか、掛て朽せぬ、人の子の道ありし名は、橋に残りて、此孝義録に載たる歌は、高岡郷士、松下某が書付けるとかや、按に上町向築地に、此孝行橋記の碑あり、下町なる堀江町に、天明元年、市人輩孝女門記の碑を樹て、孝女千世が状を其門閭に旌表す、千世母に事ふること五十年、甚だ孝あり、事官に聞す、官吏に命して廉察せられ、安永七年、戊戌、正月、賞して米四石を賜はる、事は其碑文に見いたり、薩州孝子傳に