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を分ち、其勢を取て是を走らしめ、後水は前水を推て、畎畝の間に回し、遍く田に灌き、能く水上の功を威して原隰績を底し、是より小野、草牟田、永吉、原良、西田、武、荒田等の數村、永く炎早争㆑珠の患を免るといへり、堰は和語に井出と云、田井より出たる詞なり、按に萬葉集に、井
手見ゆ、和名鈔に堰埭見ゆ、其制は、さまさまあり、今必しも不㆑言、理道要訣云、秦以李冰㆒爲㆓蜀郡太守㆒遣㆓百丈堰㆒、灌㆓田數千頃㆒、蜀
以富饒、農政全書曰、水柵、若溪岸稍深、田在㆓高處㆒、水不㆑能及、則於㆓溪上流㆒、作㆑柵遏水、使㆘㆑之旁出下漑以及田所㆖この類なり、
棈木川 水源吉田鄉宮之浦村に發し、當鄉花棚村へ入り數村を經て、坂本村稲荷社の前に出つ、因て或は稲荷川と云、是より大乘院の前を西流し、南に折れ、又東に向ひ、多賀山麓の帶となり、祇園の濱に注ぐ、
夏箕瀑布府城の北 坂本村溪間にあり、稻荷神社上、北の方、山隔て十町餘に當る、棈木川の上流なり、此邊を瀑の上といふ、
和歌
- 鹿兒島の在、吉野山にちかきわたりに、なつみのたきといふ所あり、見にまかりて、
幽 齋
- こゝもまたよし野にちかき、なつみ川、
- ながれて瀧の名にやおつらん、
- ○瀑之上觀音、 瀑布の前、巖壁の上にあり、桂山觀音ともいふ、千手觀音の石像なり、寛永十四年、平山對馬守安置す、稀痘の許愿に應ありとて、參詣のものあり、
田上川 水源は犬迫村橫井より出て、小野村西別府村を過ぎ、田上村に來り、猶諸村を經、郡本村の海に歸す、郡本村の邊に於ては新川と唱ふ、舊此下流、荒田村、中村の境を流れ海に注けるゆゑ、境川とも呼びしを、文化三年今の所に導きたり、因て新川の名あり、