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枯木のように皺だち蒼褪めたその掌から、
いまにも尊い光明がさしてくるようだった。
群集は皆聖獣のようにうなだれていた。

私と妻とは、黙々と肩をならべて
はてしらぬ敬虔な悲哀かなしみに沈みながら
夕昏の淋しい波止場の方へ靜かに歩いていっ
 た。

〈昭和九年、神戸詩人〉

死なす

  死なせてはならぬ
 死なせてはならぬ
心の中の霧の港を船がゆく。
ましろい水脈みお
杳く 杳く 消えてゆく水平線ホリゾント

ああ、吾子は革命の分身
    正義の 眞理の、
この子生きてこそ伝達する父の思想。母の祈
 願。

 死なせてはならぬ。
この子いま死なせてはならぬ。
経済の危機。侵略の相克。学説の咒縛。

  横行する黄色旗。潜行する赤色旗。
  (右翼の、左翼の、合法の、非合法の)
東洋の狼。西洋の鷲。
内憂。外患。おお、いまに爆発する世界の動
 乱。

あわれ、父母。
狂うばかりの海獣の
岩根を噛みて砕くとも
この子、きっと死なせてはならぬ。

眞理の夜明け――。
やがて、撃破する暴虐の要塞。建設する労農
 の独裁。
死ぬ。
死なせてはならぬ。
死ぬ。
遂に、遂に、この子を死なす。
ああ、心の中の霧の港を船が出てゆく。
父も母も 泪にぼやけて
杳く、杳く、消えてゆく水脈を追う。

〈昭和九年、昭和詞花選集〉

秋冷の虚

―獄をいでて故郷に帰るの日―

ほうぼうと 幼けない日の鳩笛を
どこか薄明りのなかで うつらうつら鳴らし
 ていた。
ほのぼのと ふるさとの灯のように
うら若く優しい母の面影がまたたいた。
海の涯とも 雲の上とも
まるで 呼びかけようもない杳い円光の情痴
 の座に
菩薩のように気高く女人の姿が入滅していっ
 た。

光る蜥のように たちまちと瞼を渉って
紅顔の童子は早も壯麗の若者となっていた。
若者は崇遠な眞理を尋ねて
戒律の海底を探索する潜水夫だった。
海底には海底の法律が 審判が、厳然と鉄鎖
 の規約があった。
朝に 航海する国際資本主義の使節を
夕に 侵略する反動の浮城を爆破した。
若者とその仲間たちは 目のない魚族のごと
 く深海に沈潜した。
そして流沙のようにながいながい暗鬱な人生
 が過ぎていった。