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 杳い 深い 海底から来たのだろうか。
海藻の匂いを、敬虔しくその黒髪に束ねて、

その頃、私は永い牢獄の苦闘より解放されて、
眩惑めくらめく、故郷の白日の下に、
蹌踉と、科学に遅れ、思想に疲れ、今日明日
 の糧にも飢えて、
背骨を刺す人々の白い眼に、
ここしばらくを、阿呆のような、死のような、
 深い眠りがほしいとき、
ぶるる・るる・ぶるる・るる・・ ・・・
おまえの鳴らす海ほほづきの快よい階調を、
子守唄のように聞いて、私はいつか眠った。
 ――

絶えまもなく、胸の灯盞に蝋涙は滴りおちて、
それは幾春秋の永い永い海浜の虚無だったろ
 うか。

オンナは、いま自らの掌に、ふたたび情艶の
 灯を消して、
流木のように海の懐ろに帰ろうとするでは
 ないか。

〈昭和八年、神戸詩人〉

ふるさとの燭

心のなかにふるさとあり、
雑草あらくさの家は痩せたり。

庇傾きゆけば肋骨の軋り
柱石など歪形いびつするセキズイの疼き。
かさこそとかさこそと壁土はくずれゆく。

破障子影めくは、
濡いろほのかなる燭。
父の燭、母の燭、そをめぐる兄弟はらから三人みたりの燭。
夜半の嵐遠ざかりゆけば、
すでに二人の姉の燭消えたり。

 消えむとするなり。
消えんとするなり。
ああ今宵またしても消えむとす、
老いたる燭。いのちの燭。たつきの燭。

風かよ。泪かよ。
いたつきの窓にしみいるいみじきもの。
心のふるさと秋ふかくるるるると虫啼けり。

〈昭和八年、神戸詩人〉

吹雪の幻灯

かさこそと かさこそと………
吹雪は、幽遠かそかな声で、扉をノックする。
私は、火桶を抱いて、じっと聴いている。

杳い、むかしの、薄情なオンナ
いちまいの木の葉のように、蹌踉と蒼ざめて、
吹雪に濡れて、私の膝のうえに散ってきた。

オンナは、山の彼方の薔薇ばらの穹と、囀る小
 鳥と、
春に蘇る、むかしの恋愛と、胸の病の話など
 する。
その追憶おもいでの瞳に、ぽっちりと情炎のあかりとも
 て、

私は、ぽつねんと火桶を抱いて、陰影のよう
 に踞っている。
(心のなかの、もうひとつの私は、
 かなしげに、そっと、オンナの黒髪に氷結し
 た吹雪を払ってやる)

私は、黙然と、貧家の洋燈を、オンナに指さ
 して、
その、消えがての灯下ひかげに、妻と子供の写眞を