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らず、是に於いてか吾人の明瞭に思考したる所を以て眞實となすべきことの根據を發見す。吾人は先きに理性の示す所をさへ疑へりき。されど是に至りてはそを疑ふ必要なきことを了解す、何となれば理性を吾人に賦與したるは神にして神が吾人を欺かむが爲めに之れを賦與したりとは考ふ可からざれば也。故に吾人が理性にて推究して明瞭確實なりとする事はそを明瞭確實なりと信じて聊かも之れを危ぶむ必要なきことを知るなり。

デカルトは斯くして神の誠實なることを證し得てよりは其の論步を進むること益〻容易なるに至れり。彼れは最初外界の存在をも疑ひて以爲へらく、吾人は五官を以て外物の存在を知覺すれど是れ皆五官の迷妄なるかも知る可らずと。されど茲に至りては彼れは全く其の如き疑訝を拂ひ去ることを得たり。以爲へらく、吾人が五官を以て知覺する外界は吾人自ら造り出だせるものに非ず、吾人の力を以て自由に之れを有らしめ又無からしむること能はず、寧ろ吾人の眼前に備へられたるもの、而して外物の觀念は吾人以外の何物かによりて吾人に與へられたるものならざる可からず。而して若し吾人の實際に知覺する所とは全く異なるも