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自らの性質には限り無きと云ふことを含み居らざればなり。我れは疑惑を懷くといふことに於いて旣に我が知識の完全ならぬことを自識す。然らば件の觀念は吾人が種々の限り有るものより抽象して造り得たるものなるかと問ふに、しか考ふべからず。何となれば抽象は事物の一方面のみを取りて見るものなるが故に限り有るものに就いて如何に抽象作用を施すとも限り無き者を考へ出だし得べくもあらざればなり。又こゝに限り無きといふは圓滿に凡べての實在を有する者の義なるを以て限り有るものを如何に多く集むとも之れよりして斯くの如き意味の無限者てふ觀念を得ること能はず、換言すれば、限り有るものを相重加する數に際限を置くこと能はずといふ意味にての無限は茲に謂ふ圓滿てふ意味にての無限とは異なり、唯だ幾度數ふるも尙ほ其の上に數を加へ得といふのみにては之れを圓滿完了せる者とは謂ふべからず。故に無限者としての神てふ觀念は我れよりも又我れ以外の有限物よりも得ること能はず。然らば此の觀念は何處より來たれるか。答へて曰はく、此の觀念は眞に圓滿完了せる者即ち神より來たれりと考へざる可からずと。斯くデカルトは我れに無限者てふ觀念の在ることを