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ことは確實なり、我れが思ふと云ふこと確實ならば之れと共に思ふ者即ち我れの存在することは疑ふべからず、換言すれば思ふと云ふことに即して思ふ者の存在することは吾人の意識の直接に明瞭に證明する所なりと。是れデカルトが建てたる哲學の出立點として有名なる「我れ思ふ、故に我れ在り」(cogito ergo sum)と云へる句に主張したる所なり。デカルトの意に從へば我れてふ者は思ふといふ働きより離れたる者に非ず、我れの我れたるは唯だ思ふ者といふことに在りと。而して彼れは此の思ふことをするものを稱してmens 又は animus)と名づけたり。こゝに彼れが我れ思ふといへるは我れ意識すと云ふ程の廣き意味にて云へるなり。

《「我れ思ふ、故に我れ在り」は推論にあらずして意識の直接證明也、其の批難に對する辯明。》〔四〕「我れ思ふ、故に我れ在り」と云ふ句に故にてふ語を用ゐたるによりて其は恰も三段論法やうの推論の如くに見ゆれど、デカルト自らの辯明せる所によりても明らかなる如くこは決して推論に非ずして意識の直接なる證明なり。我れ思ふと云ふことに即して思ふ者の存在することの知らるゝなり。即ち思ふと云ふことの在ると共に思ふ者の存在することの直覺せらるゝなれば是れは推論にあらずして寧ろ凡べての推論の原初の根據となるものなり。