Page:Onishihakushizenshu04.djvu/663

このページは校正済みです

エルバッハ(Feuerbach 一八七二死)等其の主なるものなり。又右翼及び左翼の外に中央派と名づくるものを分かつことあり。ローゼンクランツ(Rosenkranz 一八七九死)の如き之れに屬する者と見らるべし。

ヘーゲル學派分裂して有神論を取る者と無神論に傾ける者との對峙を生じたる外に近世に於ける物理的科學の發達の一結果として唯物論を誘起し、而して其れの勃起すると共に又之れに對して有神論の爲めに盛んに辯解の勞を取れる者出でたり。當時盛んに唯物論を唱へたるはフォグト(Vogt 一八一七―一八九五)モレショツト(Moleschott 一八二二―一八九三)ビュヒネル(Büchner 一八二四―一八九九)等にして此等の唯物論者に對して有神論を唱へたるはヷイセ(Weisse 一八六六死)小フィヒテ(Fichte 一八七九死)ウルリッツィ(Ulrici 一八八四死)等なり。

カント以後の主心的哲學の組織に滿足せず再び吾人は知識論の硏究より出立せざるべからずと見て「カントに還れ」と叫び出でたる人々あり、之れを新カント學派といふ。オットー、リーブマン(Otto Liebmann 一八四〇生)ランゲ(Friedrich Albert Lange 一八二八―一八七五)等之れに屬す。廣き意味にて新カント學派と稱せらるゝ者の中、