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ーゲル哲學の達したる結論とは大に異なりたる方角に向かひ行けるものなり。彼れは吾人の知識の成立を論じて以爲へらく、吾人の知識は時間空間及び因果といふ三つの形式によりて活動するものなり(是れ即ちカントの謂はゆる直觀の形式及び悟性の槪念を此の三つに約めたるものと云ひて可なり)。而して此等の三形式はカントの謂へる如く吾人の心に具はれる見樣なるが故に主觀的なるものなり。故に此の三形式の中に入り來たる所の世界は吾人の觀念に外ならず。觀念する者としては吾人の主觀(我)は客觀に對するもの(即ち能觀者)たるに外ならず。されど吾人には尙ほ他に我を知るべき一路あり、即ち直接に我れを知る內觀的知識是れなり。此の知識に從へば、吾人は我れは意欲Wille)なりといふことを知る、而して我れの意欲なりといふことより推して、天地萬物として我れに現はるゝ凡べての物も其の奧底は皆同じく意欲なることを知るべし。石落ち、風吹き、水流る、畢竟ずるに皆意欲の發現に外ならず。胃の腑は飢渴と名づくる意欲の形を取りて現はれたるものと云ふべく、天に運行する星體より地上の生物に至るまで其の動いて止まざるは要するに意欲の發現せる姿に外ならず。此の點より見れば世