Page:Onishihakushizenshu04.djvu/580

このページは校正済みです

のたることを得ず、先天的といふことと遍通的といふこととを相離れざるものと見る是れカントが哲學の全體を貫通する思想なり。

《意志の法則と行的理性。絕對的に善なるは善意のみ。》〔三二〕カントが倫理說の目的は先天的に意志の法則を立てむとするに在り、而して彼れは意志の法則を立つるものを名づけて行的理性(理性が吾人の行爲即ち意志の範圍に於いて現はれたるもの)と云へり。此のゆゑに吾人は種々の後天的なる事柄に憑かれる吾人の幸福(快樂)を以て倫理の法則の基礎とすること能はず、何となれば如何なるものが吾人の幸福となるかは各人の好惡と共に異なりて之れに關しては何等の遍通的法則をも先天的に立つること能はざればなり。又各人の氣質、欲求、才能等をも其の基礎とすること能はず、此等も亦人によりて異なりて先天的に定め得らるべきものに非ざればなり。啻だ然るのみならず若し吾人の欲求其のものを以て道德法の基礎とせば特に倫理の法則を要せざるべし、何となれば、各人が自然に其の欲する所に從うて行爲すること是れ取りも直さず其の德行たるべければなり。即ち行爲が吾人の幸福の上に、才能の上に、及び其の他の事柄の上に及ぼす結果を以て倫理の大本とすること能はず、何となれば、其等