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果と云ふ槪念は一現象と他現象との關係に就きては(即ち現象界に於いて含蓄的には正當に用ゐらるれども一切の現象の絕對的原因といふ如きものは吾人の知識の範圍に入り來たらざるものなり、一言に云へば、此の論證は原因といふ範疇を正當に用ゐるべからざる範圍に用ゐたるものなり。假りに因果の範疇は超越的に用ゐ得べきものとすとも尙ほ神といふ原因を以て極めて完全なるものと稱すること能はず、何となれば此の世界の完全なりといふことは吾人の證し得ざる所なるを以て其の原因も亦必ずしも完全なるものとは云ふことを得ざればなり。若し其を完全なるものと云はむには實體的論證に立ち返るより他に途なし、而して實體的論證の立ち得ざることは上に述べたるが如くなり。

第三に言ふべきは從來慣用し來たれる目的觀上の論證にして其の趣意は吾人の製造物に準へて神を宇宙の製造者と見るにあり。其の說に曰はく、宇宙は其の方便と目的との相應じたる關係に於いて知慧ある者の存在することを證すと。今假りに此の論證を以て有効なるものとすとも其は唯だ世界の事物に其の如き秩序を與へたるものあることを示すのみにて萬物の創造者の存在を證すること能