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にあらざることを次ぎの如く論述せり。
第一、純理哲學的心理學に謂ふ靈魂てふ觀念の吾人の心的現象を考ふるに便利なるは吾人の精神的作用の悉くが凡べて恒有なる靈魂てふ實體に統一せられ居ると見るがゆゑなり。然れども斯く吾人の實驗する心作用の外に其を統一する一實體を置いて考ふるは論理上の誤謬に基づけり、何となれば吾人が「我」と名づくる一切の心作用の淵源となる一實體即ち靈魂の存在するが如く思ふは詮ずれば吾人の意識に統一作用あるが故に外ならねばなり。我といふ意識は畢竟吾人の心に經驗する一切の事柄を統一する意識なり、我れ思ふといふことは斯く統一して意識すといふことに外ならず。このゆゑに「我」と名づくるものを以て論理上の主者(Subjekt)とすることを得れどもそれより直ちに實體としての主者ありといふことを得ず。一言に云へば靈魂てふ實體を置くは吾人が思考作用の論理的主者と實體としての主者とを混同したる論理上の過誤に外ならず、カントは之れを名づけて純理哲學的心理學の論過(Paralogismus)と云へり。盖しカントが自然科學を論じたる所に於いても實體といふ槪念は時間に於ける吾人の感官的經驗の常住を