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るゝこととなれり、而して吾人の經驗上の事物是れ即ち現象なるがゆゑに吾人の知識に於いて遍通なるものは現象即ち經驗の形式以外に出づること能はずといふこととなれり。

《時間空間は主觀的のものなり。》〔一四〕斯くしてカントは時間及び空間を主觀的即ち心性的のものと見たるが、此處に主觀的と謂ふは感覺を主觀的なりといふと明らかに其の意義を區別せざるべからず。感覺を主觀的なりといふことはカントがデカルト及びロックと共に疑はざる所なり。然れども其を主觀的なりといふ理由を何ぞやと尋ぬるに其が個人的なるがゆゑなりと云ふこと、換言すれば非遍通的なりといふことに在り、是れ實にプロータゴラス及びデーモクリトスが感覺を主觀的の者と見たる理由なり。然るに時空は其れとは全く反對なる理由を以て主觀的とせらる、即ち時空に於いて事物を見るといふことは吾人人類の心性に於いて個人的の差別を容れざるものなり、例へば、一物を見る色或は其の聞く音聲は人によりて異なることあらむも其の空間に於いて見時間に於いて聽くといふことに於いては少しも異ならず。故に感覺を主觀的なりといふ意味に對して云へば、時空は寧ろ客觀的な