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觀的習慣の結果に外ならずと見ざる可からざることとなる。ヒュームの此の結論によりてカントは彼れ自ら云へる如く其の獨斷說の昏睡より覺まされたるなり。而かも彼れは此のヒュームの結論を以て吾人の知識の成り立ちを說明する上に於いて未だ十分に成功したるものに非ずと見たり、即ち彼れはヒュームにも滿足せざりき。一言に云へば、彼れは唯理說をも經驗說をも共に吾人の知識の其の對境に對する關係を說明し了し知識其の物の成り立ちを明らかにすることに於いて未だ成功し居らざるものと見たり。以爲へらく、唯だ論理的作用を以ては吾人が硏究の題目なる知識を形づくり得ず又唯だ外より與へらるゝ事柄(即ち經驗派の學者が知識の淵源とする所のもの)よりしても又能く吾人の求むる所のものを與ふること能はずと。然らば此の問題は如何にして說くべきか。

《知識の先天的及び後天的要素、即ち形式と素材。》〔七〕此の問題を解釋すべきものとしてカントは吾人の知識を形式Form)と素材Stoff)の二要素に分析せり。以爲へらく、素材は經驗によりて與へらるゝもの即ち後天的アポステリオリのもの(a posteriori)なり、形式は吾人の心性其の物に本具するものにして經驗によりて來たるものに非ず即ち先天的アプリオリのもの(a priori)なり。〈知識の a priori といふことはアリスト〉