Page:Onishihakushizenshu04.djvu/51

このページは校正済みです

先きだちコペルニクス(Kopernikus 一四七三―一五四三)出でて地動說を唱へたり。彼れの初め其の說を唱へしや表面上は唯だ之れを一種の臆說として提出したりしが其の說おひ當時の進步したる思想家間に弘まりブルーノに於いては廣大なる哲學的世界觀に編み込まれたり。

其の後ケプレル(Kepler 一五七一―一六三〇)出でて更に天文に關する硏究を進めたり。彼れの學術的思索は宇宙の調和といふ觀念を根據とせり、此の點に於いて彼れは文藝復興時代の一般の思想に據れるが如くなれども其の硏究せる所はピタゴラス學派風の數理に關する想像說にもあらず又所謂伊太利の自然哲學の類ひにもあらずして精確なる計算を基とせるものなりき。即ち自然界の硏究は彼れに於いては神祕的ならず神智的ならずして數學を應用したる科學的のものとなれり。(彼れ以爲へらく、眞正の知識は精確に計量を爲し得る所に在りと。而して此の計量的觀察是れ即ち近世科學の一大特色なり。此の科學的硏究法の後にガリレオによりて更に開發されたることは後章に叙述すべし。

《國家の獨立、マッキャヹルリの國家論。》〔一二〕當時如何に學問界の眼の自然界に注がれたるかは上來述べたる所の