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亦他人の占むる所となり、一千七百七十年に至りて漸く此の椅子を占むることを得たり。彼れは曾て他の大學より招聘されたることありしかども辭して行かず一意其の大學に於ける敎授に心を傾けて一千七百九十六年に至るまで絕えず其の職に力めたりしが此の年に至りて老衰の爲めに止むを得ず講義を止むることとなり、一千八百〇四年終に老病を以て逝きぬ。彼れは終生娶ることなかりき、又生涯東普漏士の域外に出でたることなかりき。

カントの講義は大に學生等の愛する所となりき。一千七百六十二年より一千七百六十四年に至る間彼れの講義を聽きたるヘルデル〈當時ケーニヒスベルヒに在りて一學校の敎師たりき〉は後に彼れの講義を稱揚して「最も思想に富みたる講演は彼れの唇より流れ出でたり、彼れの講義に於いては滑稽も亦乏しからず、彼れが講演の席に侍することは最も樂しむべき業なりき」と云へり。彼れの講義するや專ら學生に與ふるに知識を以てするのみならず又道德及び宗敎上其の心を堅固にせむことを心掛け而して其の大學の學生に對する講義と廣く世の學者社會に訴ふる著作とを分別したり、故に其の論述の趣に於いて彼れ此れ同一ならざる所あり。