Page:Onishihakushizenshu04.djvu/500

このページは校正済みです

なりとして茲に新見地を開く途を發見したる者是れ即ちカントなり。

カントの考ふる所によれば從來の哲學は二大潮流の何れを見るも先づ吾人の知識の成り立ちを考ふることを力めざる點に於いて誤れり。ヺルフ學派は吾人の知識の成り立ちを考へずして豫め之れを以て實在の自性を窺ふに足るものと定め吾人の論理上考ふる所は取りも直さず實在そのものの相を示すものなりとして其の論步を進めたり。されど是れは畢竟吾人の知識の成り立ちが果たして其の如きことを爲すに堪ふるものなるか否かをも詳しく考へずして唯だ其の然らむことを獨斷して進み行けるものなり、其の病根こゝにあり。他方に在りてヒュームは吾人の知識を以て實在の遍通的實相を窺ふに足らざるものとなしたれども其の懷疑は未だ十分に吾人の知識の成り立ちを穿鑿したる結果として得たるものにあらず、ロックを始めとしてヒュームに至るまで吾人の知識の起原及び成り立ちを考究せざりしにはあらず而かも其の考究は專ら心理學上の觀念に止まり唯だ吾人が心理的發達の經驗上の順序を云へるものにして未だ能く知識其のものの成り立ち又經驗其のものの出來得べき所以を考究したるものにあらず、此