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限なるものの觀念を有せず、故に神を考へて之れを意志あり智あり德ある者とせむには必ず假りに之れを人間に擬せざるべからずと。

《佛國唯物論の開祖ラ、メトリーの著述、性行及び知識論。》〔二三〕ヺルテールは感覺を以て運動と共に物體の本具し居る性質なりとなせり、委しく云へば一實體が物質的性質を有すると共に精神の作用をも有すと見たるがボネーもビュフォンもロビネーも各〻心作用と物理的方面とを相離さず進んでは物質的方面を以て精神的現象の基礎とすることに向かひ行かむとせり、就中ロビネーの唱へたる所の如きは之れを一種の唯物論と云はむも必ずしも不可なることなし。されど此等の人々の立脚地に比して更に明々地あからさまなる唯物論と稱すべきものは已に早く


ラ、メトリー(La Mettrie 一七〇九―一七五一)

の唱へたる所のものなり、是を以て或は彼れを當時の佛蘭西に於ける正當なる意味にての唯物論の創始者と爲す人あり。ラ、メトリーは軍醫なりしが當時一般に行はれたる醫術を攻擊し、又彼れの意見を、始めて其の著『精神の自然史』("Histoire