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皆是れより成り上がるべきものと考へたり。彼れの論ずるやヒュームに比すれば更に獨斷的なり。ライブニッツも亦吾人の心が漠然たる感覺の狀態より漸次に發達し行く順序を說かむとしたれども彼れの說とコンディヤックの見る所とは發達といふことを倒まに考へたるが如き趣あり。ライブニッツは感覺を以て吾人の高等なる知識作用の初步と見たり、換言すれば、吾人の心作用に感覺と云ひ知識といふ別種類のものあるに非ずして前者は唯だ後者の未だ發達せざるものなりと見たり。コンディヤックも亦ライブニッツと同じく感覺と知識とを相異なるものと爲さざりしが彼れは後者を以て唯だ前者の複雜に成れるものに過ぎずと見たり、即ちライブニッツは感覺に於いて已に高等なる知識作用が唯だ其の未だ十分に開發せざる狀態に於いて含まるゝを見、コンディヤックは高等なる知識に於いても唯だ感覺の複雜となりたるものなることを認めたるなり。

《エルヹシユスの自己的快樂說。》〔一五〕コンディヤックは各人の快不快の感は其の動作を決定するものなりと說きたれども彼れは倫理上猶ほ決して自利說を發表せるにはあらざりき。道德上に感覺論を移し來たりて茲に自己的快樂說を明瞭に主張したる者を