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《佛國の思想感覺論に傾き行く。》〔四〕かくの如くデイスト風の思想が變遷し行ける傍にロックの知識論は(已に英國に於いてはピーター、ブラオンに於いて認め得る如く)感覺論の方面に向かひて發達し行けり、而して純然たる感覺論は是れ即ち吾人のコンディヤックに於いて發見する所なり。
ヺルテールが其の安立の地となしたる道德の說は尙ほ專らシャフツベリーによりて起こされたる倫理思想に感染せられ居るものなるが、上述せる如く哲學思想が感覺論に傾き行くと共に道德思想も亦感覺論に傾き行きて終に純然たる自己的快樂說を成すに至れり、而して是れ吾人が先づ最も明瞭にエルヹシユスが所說に於いて發見する所のものなり。
《純理哲學としての唯物論形づくらる、啓蒙時代の思想發達の絕頂點と見るべき書『自然界の組織』。》〔五〕ロックの哲學より佛蘭西に移し植ゑられたる觀念論(ideologie)が知識論上の感覺說を誘起し來たれる傍に機械的自然科學は人身上に於ける唯物論を生じ來たりぬ、是れ盖しニュートンの唱へたる機械說を生物界に推し擴め來たれるものに外ならず。當時の物理的硏究の結果が遂に人身をも單に一の物質的機械と見做す思想を產み來たらむは自然の勢なり。而して此の生理上の唯物論と知識