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りてする如く)自然科學となれる趣あり。されど此の學派はヒュームに於ける心理的分析に反抗せるより其の硏究おのづから分析に於いて缺けたる所あり、而して其の取る所の硏究法は畢竟各人が我が心に省みて自明と思惟するものを其のまゝに列擧して之れを常識に具はる原理となすに外ならざれば、謂はゆる自明の眞理の數の幾許あるかを定めいふこと能はず唯だ思ひ當たる所に從うて拾ひ集むるに過ぎず、故に同じく此の學派に屬する者の中に在りても其の自明の眞理として揭ぐる所のもの決して全くは一致せず。是れ此の學派立脚の根柢に於いて大に不滿足の所あるを證するものなり。また此の學派に於いては詳細なる分析を用ゐずして謂はゆる原理を窮極なるもの自明なるものとして認許するの傾向あり。遮莫、此の常識學派は多くの人々にヒュームの結論より遁れて且らく休息の處を與へたるが如き趣ありしがゆゑに一時大に勢力を振るひたりき。即ち此の派の隆盛を極めたるは哲學に於ける當時の學者の硏究心が分析に倦み疲れたる結果なりといふべく、畢竟一時の休息を求めたる如きものにして決してヒュームの揭げたる問題がこゝに至りて其の根柢より氷解されたるにあらず。ロック