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しと見るは誤れり、其の成り立ちに於いて本來若干の究理上並びに行爲上の原理を具へ居るものなりと。彼れは斯く考へて其等原理の總體を名づけて常識(common sense)と云へり。而してこれらの原理を純理上並びに道德上の凡べての哲學の基礎とする所より此の學派を稱して常識學派といふ。此等の原理は自明なるものとして吾人の直接に認むる所にして更に其の理由を問ふを要せざるものなり。かくの如く此の常識學派が萬人に通ずる若干の原理の存在を說ける點に於いてはロールド、ハーバートが所說の復興したるものと見らるべき所あり。

ロックに剏まりてヒュームに至れる說に於いて吾人の捨つべきものは經驗を根據とする硏究法にはあらずして唯だ觀念を出立點となし原始のものは單に個々の觀念に外ならず吾人の知識は後に其等の觀念を結合することによりて作りなさるゝものなりと說く所(ideal system)に在り、是れ實に此の說に於ける誤謬の根本なりとす。吾が心の實驗を省みれば原初のものは決して離れの個々の觀念にはあらずして寧ろ判定(judgment)なり、吾人の心の活動は唯だそれら切れの觀念に始まると云はむよりも寧ろ判定に始まるといふべく而して單純なる觀念