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の上に來たすところの結果を標準として考ふることを須ゐずして吾人の直接に是非する幾多の事柄ありといふに在り。功利說は之れに反して道德上の是非善惡は畢竟ずるに社會一般の利福を來たすといふことに歸すべきものなりと云ひ、而して謂ふところ幸福とは已にヒュームに於いて明瞭にされたる如く快樂を要素とするものに外ならず。さきに揭げたるクラーク等の說の如きも亦一種の直覺說として見らるべきものなれども其の功利說との對峙は彼れに於いては未だ甚だ明らかならず直覺說の功利說に對する關係は後に至りて潮々明らかになり來たれるなり。而して十八世紀に於ける後の直覺說の一好代表者といふべきはリチャード、プライス(Richard Price 一七二三―一七九一)なり。彼れ一千七百五十七年に『道德上の主要なる問題及び難點の評論』("Review of the Chief Questions and Difficulties of Morals")を著はし、正、不正とシャフツベリーの謂へる道德上の美醜とを別かちて曰はく、前者は吾人の行爲に客觀的に存在する性質なり後者は吾人がそれに就きて感ずる主觀的感情を言ひ現はしたるものなり。また客觀的に存在する行爲の正しといはるべき性質は單に博愛といふことにのみ歸すべきものに非