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nal of our Ideas of Beauty and Virtue")に於いてはシャフツベリーよりも更に明僚に德行と博愛とを同一視せり。說いて曰はく、道德的行爲の動機として吾人の最も嘉みすべきところのものは、一にば社會全體の利益を計る博愛の心、二には道德上優れたることを其れ自身に喜ぶ心なり、換言すれば前者は博愛にして後者は所謂道德官なりと。尙ほ以爲へらく、個人が唯だ自己の利益をのみ目的として只管これを計る心は廣く他を利することに害なき限りは道德官の上より見て非とすべきことに非ず然れどもまた嘉みすべきことに非ず即ち道德上無記のものなりと。然れどもハッチソンは博愛と道德官の示す所とは共に各個人の眞正の利益と決して相逆らふものに非ずと信じて疑はざりき。彼れは德行の標準を樹てゝそは明らかに最大數に取りての最大幸福(the greatest happiness for the greatest numbers)を來たすことに在りとなせり。されど吾人の行爲が純粹の善心即ち博愛の心又は道德官の指揮に從ひたる時に於いても實際一般社會の幸福を來たさざることあり、又實際に社會一般の幸福を來たす行爲必ずしもかゝる善心より出でたるにあらざることあり。是に於いて彼れはに於いて(material)善なるとに於いて(formal)善な