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るは全く別論なり、換言すれば、理論上の根據と生起上の根據とは混同すべからざるものなり。宗敎は自然に人間社會に起こり來たれるものなれども其れが自然に起これりといふことは吾人の理性によりて立てられたりといふとは異なり。宗敎は理性によりて起こるよりも寧ろ希望、恐怖、驚愕、失望等其の他天然が吾人に與ふる災害等の恐るべきものによりて吾人に起こさるゝ感情及び其等天然の作用を人に擬して考ふる吾人の一種の心理的傾向によりて起こされたるものなり。故に宗敎の原始の狀態はデイストの謂ふが如く高等なる合理的のものに非ず、一神敎にあらずして寧ろ下等なる多神敎なり、唯だ吾人が思想作用の進むに從ひて宗敎上の事をも思索考察するに至り其を合理的ならしめむとするが故に下等なる狀態より漸次に高等なるものに進步し行くのみ。然れども宗敎上の發達も亦唯だ理性を以て吾人の推究する所にのみ原因するものに非ず、これには他の種々の因緣の結合し來たるものあるが故に一旦高等なる一神敎に達せる上にも尙ほ常に精神的に高尙に考ふる傾向と有形的に卑近に考ふる傾向との間に徘徊すること多し。宗敎の起因斯くの如くなるが故に世に謂ふ宗敎には種々雜多