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於いて吾人の常に認むる所ならずや、例へば無數の動植物の種子が失はれて唯だ其の一小部分のみが生育するが如き、或は人間に於いては、吾人の實際に見る所によれば唯だ少數のもののみ道德上十分の發達を遂げ得るが如き、其の他のものは皆選擇に漏れたるが如きものと見られざるべからず。人或は贖罪の宗義を非難せむ、然れども罪なき者が罪ある者に代はりて苦艱を受くること是れ實に世間の常態にあらずや。故に吾人若し天啓的宗敎の敎義を疑はば之れと同じき理由によりて自然界が神によりて造られ又支配さるゝことを疑ふを得べしと。而してバトラー自らは之れを說明して畢竟吾人は何れの方面より見るもよく全體を達觀すること能はざるがゆゑに其の如き理論上の困難に遭遇すと考へ道理上に於いても又道德上に於いても宗敎上の信仰に處るを以て最も安全なることとせり。

《ヒュームの宗敎論。》〔八〕バトラー等の批評よりも更によくデイズムの弱點を見且つ其れを超脫せるはヒュームの宗敎論なり、盖しヒュームの說く所はデイスト風の思想の絕頂に逢せるものなると共に又よく其を超越せるものなり。そもデイスト等の宗敎を論ずるや專ら理性を根據となし而してかく只管に理性を據處とする唯理的傾