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採ること能はずと。例へば此處に一脚の机を見むに兎に角其が印象として吾人に經驗せられたることは確かなれども其の印象の何者の起こす所なるかはヒュームの措いて問はざる所なりき。○(印象の成り立ち且つ殊に異同の印象といふが如きものの如何にして成さるゝかを問はざるべからず。)且つ又彼れは頻りに聯想律を用ゐ殆んど之れを以て在來の純理哲學上の觀念を打破する唯一の武器なるが如くに取り扱ひたれども、聯想は異同の觀念即ち一を他と同じ又はしからずと認定すること等の後に行はるゝものなればそれを以てその如き認定作用を說明すべからず、啻だ然るのみならず彼れの說ける所よりのみ見ては何故に聯想といふが如きことのあるかを了解する能はず。彼れの立ち塲よりすれば一觀念と他觀念とが相喚起すといふが如きことは却つて不可思議のことなりと云はざるべからず、そは彼れの出立點は個々の印象及び個々の想念にして之より以外のものを許さざるが故に別々の觀念が何故に相聯結する傾向を有するかは考へ難し、是れ彼れ自ら承認する所なり。斯く個々別々の印象及び想念を以て其の出立點と爲す以上は其處に統一といふことの行はるゝ所以を解すること能はず、故に哲