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印象及び想念即ち廣義に謂はゆる觀念の連續に外ならず、而して其等をしか連續せしめ結合せしむる所以のものが其の基本となりて存在すといふが如きは唯だ聯想上の習慣より吾人の想像し來たるのみにして吾人の確實に知識し得べき限りに非ずと。斯く凡べてを觀念の連續と見做す上より云へばヒュームの說は唯念論と名づけらるべきものなり。是に至りて從來究理學派に於いて主要なる觀念とせられ、ロックに於いても猶ほ全くは棄てられず、バークレーに至りても其が精神的のものを說く上に於いて保存せられたる本體てふ觀念はヒュームに至りて全く抛棄せられたるなり。ヒュームはバークレーが本體てふ觀念を唯だ物體の上に於いてのみ破壞したる立塲より一步を進めたるのみならず其の如き觀念の吾人の心に起こり來たる所以を心理的に說明して其は自然に起こり來たるべきものなれども畢竟吾人の主觀的習慣より生じたるものに外ならずと論破したる所是れ彼れの說に於いて特に見るべき所なり。かゝる說明の仕方是れ即ちヒュームが硏究の最大利器なりきといふも可なり。
《數學は類同の關係に基づきて觀念の關係を定むるもの也。》〔八〕以上述べ來たる所によりて見れば心物共に吾人は直覺的に其が本體の