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物の存在に就きては吾人の五官は相互に其の證明を合はす所あり。例へば眼によりて火の在ることを見ると共に手に觸るゝといふことが亦其の存在を示すが如し。されど此の外物の存在を知る知識は上に擧げたる直覺的に知る我の存在及び論證的に知る神の存在の知識に比すれば確實なることに於いて其の下に在るものなり。されど實際生活の用を達する上に於いては吾人は不足を感ずることなきほどに外物の存在を確むることを得。斯くロックが知識論上我れの存在を以て吾人の知識の直接に確かなるものとし、次ぎに神の存在を確實に推知し得と云ひ、而して最後に感官を以てする物體の存在に關する知識を置けるところ、是れ亦明らかにデカルトの所說に由來せるなり。

《或然的知識の說明、合理、背理、超理の別。》〔一八〕ロックに從へば凡べて論證的に確實なりと云はるべき知識は觀念と觀念との關係を認むるに止まりて實在物の存在に及ぶものにあらず、されど彼れは唯だ一つの例外を容れて神の實在は確實に論證することを得と考へたり。此等の論證的知識及び前に述べたる直覺的知識の外に關しては吾人は凡べて或然の度に從ひて吾人の判斷を定め行かざるべからず、而して這般或然的知識は或は