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めし「我」及び「神」といふ觀念、又其の他一切論理上、敎學上及び純理哲學上の原理と稱せらるゝものも一として吾人の生得したるものにあらずとなせり。然らば吾人の觀念は何處より來たるか。

《吾人の觀念は凡べて經驗より來たる、經驗を得る二途、感覺と反省、內官と外官。》〔四〕吾人は何處より吾が觀念を得たるぞと問ふに、ロックは答へて曰はく、其の起原は經驗の外に在るべからず、而かも彼れに從へば經驗には吾人の感官を以て外物に關して得るものと吾人が自ら吾が心作用を省み其の作用に就きて得るものとの二つあり。而してロックは前者を感覺sensation)と名づけ、後者を反省reflection)と名づけ、又は前者を外官external sense)後者を內官internal sense)と名づけたり。以爲へらく、吾人が觀念を得る順序より云へば、感覺は反省に先きだち而してまづ感覺によりて得たる觀念を用ゐてする心作用を覺知することに於いて反省即ち內官よりする觀念を得るなり、此等の二つを除きて他に吾人に觀念の來たるべき道なし故に吾人の心には唯だ二つの窓あるのみ。ホメーロスの詩が凡べて二十四文字を以て綴られたるが如く吾人の有する千差萬別の觀念は元來皆上に所謂二つの窓より入ち來たれる觀念を以て成れるものなり。吾人の心は拭へる