Page:Onishihakushizenshu04.djvu/242

このページは校正済みです

は甚だ慊焉たらず、其の頃よりデカルトの著書を讀みて大に哲學上の興味を覺え、且つガッセンディ及びホッブスをも硏究せり。メーシャム女史の記せる所によればロック自らデカルトの著述を繙きて始めて哲學の書を讀む與眛を覺えたりと屢〻語れりとぞ。當時英國は恰もクロムエルが統治權の下に在りし時にしてオックスフォルド大學に於いては思想の自由を束縛せず、殊にロックの在りしクライスツ、カレッヂ學長ヂョン、オーエンは宗敎上寬容に富めりし當時の名士にしてロックは少なからず此の人の感化を受けたり。彼れ初めは宗敎家たらむと志したりしが王權復興して後は英吉利の監督敎會、ピュリタン宗派に取りて代はることとなりしかば其の自由なる宗敎上の懷抱は彼れをして敎職を帶びむとの念を斷たしめたり。後又彼れは醫師とならむと欲して醫學及び化學の硏究に心を傾けたりしが醫術も亦彼れが身を立つべき職業にはあらざりき。一千六百六十五年サー、ヲーター、ヹーンがブランデンブルグの宮廷に使するに方たり其の書記官として行けり。翌年オックスフォルドに歸りて其處にロールド、アンソニー、アシュレー卽ち後のシャフツベリー侯(Lord Anthony Aschley, Earl of Shaftesbury)と相知り