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神によりて創造せられたることを說かざるを得ず。之れを要するに、彼れの說く所はオッカジオ論に附著する困難と同一の困難に觸れざるを得ざるなり。

次ぎに吾人はライブニッツが所謂モナドの想念する事柄の何なるかを知るに困しまざるを得ず、換言すれば、其が想念の內容の何なるかを了解し難し。何となれば彼れは各モナドは其の自性に具ふる所を自發するものなりと說くものから其が自發する想念の何なるを尋ぬれば是れ他のモナドの狀態を縮寫せるものに外ならずと云ふ、而して他のモナドの狀態は何ぞやと尋ぬれば是れ亦他のモナドの狀態を表現するものに外ならずと云ふ。されば到底各モナドの想念は他のモナドの狀態を表現するもの也と云ふに止まるなれば恰も寫すもののみありて寫さるゝ內容の來たる所なきの難に陷る、換言すれば、一モナドは他を表現し、而して表現さるべき他のモナドに何事のあるかと尋ぬれば其はまた他を表現すと云ふに止まる。されば想念さるべき事柄の出で來たる所以は竟に之れを解すべからず、若し其の事柄を得むとすれば唯だ之れを神といふ原因に歸して、神は各モナドにそが想念の內容を與へたりといふ說明に其の隱家かくれがを求めざる可からず。之れを