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於ける思想上の存在以外の存在を與へらるゝには其の爾かせらるべき理由なかる可らず、換言すれば、其れが存在するに至る十分の理由なくして存在すべきものに非ず。然らば其の理由は何處に在るか。曰はく、其の存在するに宜しき所あること是れなり、別言すれば、物は其れが完全の相を具するの度に從うて實在するなり、全きことの大なる程其の實在する理由は大なるなり。而して神の心に於いて思想上已に存在する數多きモナドの中に就き其の實在し得ることの最も多大なるものが先づ實在を與へらる、之れを譬ふれば、猶ほ若干の運動が各〻相異なる方面に向かひて起こる時に其等の相合したる結果は種々の運動の最も多くが實現せらるゝ方角に向かひて進むが如く、最も實在の多き(換言すれば完全なることの最も大なる)モナドの團體が實在を與へらるゝ也。思想上には等しく存在し得るものも其れが實在を與へらるゝ上に於いては皆同等ならず、彼れ是れ矛盾するものは共在するを得ず、其の中の何れかが選擇せられざる可からず、而して其の選擇せらるゝや全きことの大なるもの先づ實在を與へらる。一言に云へば、神の心に浮かべらるゝモナド全體の中より、相調和して最も完全なる實在を與へられ得るも